還暦男のつぶやき

自己満足のエッセイ

プロ野球界の「もしトラ」

阪神タイガース。オープン戦ながら9連敗を喫した。

私も、一昨日、8日(金)のヤクルト戦、甲子園で一人、観戦した。この日は、序盤に5点取り、楽勝ムード。昼間から、甲子園名物の焼き鳥やビールを飲みながら、リラックスして甲子園を堪能。そして、8回もツーアウト、そろそろ帰宅しようかな、と思っていたら、次から次へと4つのエラーが絡み、6失点で逆転される。

昨年の日本一を称える甲子園球場のネット裏


まあ、こんな日もあるかと、若干の腹立たしさを抑えてこの日は帰宅。ただ、翌日、そしてこのエッセイを書いている本日も敗戦で9連敗。さすがに、心配になってきた。「もし、トラが今年だめだったら?」と考えてしまう。でも、今のうちに膿を出しとけば、そのうちに調子が上向き、開幕時には絶好調、と根拠のない楽観的な考えについ向かってしまう自分に気づく。

でも、よく考えるとトラの歴史に「連覇」の文字はない。みんなから賛辞を浴び続けるよりも、むしろ、罵詈雑言を浴びた歴史の方が圧倒的に長い。もし、トラが今年だめだったら、関西は騒然とするだろうなあ。あれ、これって「もしトラ」?

政治の世界では、次期アメリカ大統領について、「もしトラ」と言われて久しいが、徐々に現実味が帯びてきた。「もしトラ」なら世界中が、混沌としそうな雰囲気だ。

野球界も「もしトラ」なら・・・・、考えたくない。これ以上変なことを書くと、言霊が乗り移ってしまいそうなので、この辺で筆ならず、キーボードをしまうとしよう。

 

 

 

ぼやき|往生際の悪い決断

2週間ほど前、仕事出先でコーヒーの自販機のボタンを押した瞬間、腰に激痛が襲う。いわゆるギックリ腰。その日は、何とか仕事を終え、時々襲う激痛に耐えながら家内に駅に車で迎えに来てもらって帰宅。翌日は終日安静で、その後徐々に回復してきたが、完治とは言い難い。

ということで、3月10日に参加予定だった「飛鳥ハーフマラソン」の参加の是非に向けて密かに悩む日が始まった。今回のギックリ腰の遠因は、ハーフマラソンに向けてのトレーニングの強度を上げていたので、無理がたたったのだろう。

と言っても、私は、今や2時間半を目標タイムとする、市民ランナーとしても遅い部類に入る。他の方から見ると大したトレーニングではないのだが。

このマラソン大会のコースは、石舞台古墳飛鳥寺をはじめとする飛鳥の名所をくまなく網羅し、田園風景も素晴らしい。更に、意図的に高低差もつけたタフなコースで、参加者泣かせのところも、逆に魅力的。昨年参加して、今年も楽しむつもりだった。

   

asuka-marathon.jp

徐々に回復してはいるが、まだ朝の起床時に痛みを感じる状況。それなら、腰に負担にかからないよう、ウオーキング中心で完走を目指すこと考えたが、大会の制限時間(3時間30分)内で、ゴールするのはやはり難しい。

ということで、自らの往生際の悪さにあきれながらも、本日、参加しないことを ”正式”に決断した。私にとっては、「苦渋」の決断だ。

でも決めた以上、気持ちを切替えないと。「禍を転じて福と為す」というが、このタイミングでのギックリ腰をどう「福」とすればいいのだろうか。「福」とは言わずとも、せめて「(回)復」と為せばいいのだが。つべこべ考えずに、忘れることが一番かな。でも、当日参加されるランナーの皆さんのご奮闘は祈っておこう。

 

 

 

  

オリックス vs ソフトバンク:違いも感じたキャンプ体験

27,28日と宮崎のプロ野球のキャンプに行ってきた。これは現役サラリーマン時代の余っているマイルを使っての訪問、昨年に続いて2回目だ。昨年は日帰りで、応援しているオリックス見物だけだったが、今年は1泊して初日はソフトバンクを見た。

両軍とも平日とは言え、多くのファンが来ている。特に若い女性が多い。また小学生もチラホラと見受けられ、「学校は行かんでもいいのかな」と野暮なことを考えてしまう。

キャンプ打ち上げ直前で、キャンプ特有のいわゆる特訓系の練習は見られなかったのは残念。ただ、両日とも午後からロッテとの練習試合があったので、様々な選手がプレーする姿を見ることができたので、良しとするか。

また、キャンプの特徴として、選手とファンの近さがあげられる。昨年はまだ、コロナの影響もあり、サインを求める雰囲気ではなかった。でも今年は、練習見物というより、サインを求めて選手のグランドからの”出待ち”のために来ているのではと思うファンも多いと感じた。

レギュラークラスは練習試合だったので、たまたま出てきた控え選手に長蛇の列のシーンもあった。ただ、なかなかサインをしてもらえず、「あいつは、若い女性だけを選んでサインしてる、許せない」などとぼやいている中年男性も。でも本当にそんな控え選手のサイン欲しいの?

最近、カスハラが大きく問題になっており、東京では条例化されるとの話も聞く。プロ野球でも同じこと言えるのでは。まして、キャンプ見物は無料。ファンであっても、客面するのはどうかと思う。ファンは「サポーター」であって、「客」でないことを認識すべきでしょう。

ただ、公式戦で情けない負け方をした時に、「金返せ!」くらいのヤジは、許容範囲だろうけど。いずれにせよ球春が近づく。心が少しずつときめく季節到来だ。

ついでに、もう一つ、オリックスソフトバンクの違い。

    

左のソフトバンクのグランドには、プレーヤーの写真がドカンと。この他にもアチコチに選手・監督の社員が。一方のオリックスは個々のプレーヤーの写真はなく、スローガンや球団のマーク。これだけで、球団の姿勢を決めつけるのもどうかと思うが、「集団」のオリックス、「個」のソフトバンクといったところか。まあ、いろんなところにソフトバンクの方が華やかさを感じたキャンプ地でした。

 

幼児の日々―老いと子どもの対称的な関係

歳をとると、人間は子どもに戻るとよく言われる。ちょうど今、そのことを実感している。父は実家で母と二人暮らし。要介護認定も受け、母の面倒で何とか暮らしている。いわゆる「老老介護」というやつだ。

私は月に数回、実家を訪れ、買い物や通院などの手伝いをしている。その際に会う父は、どんどん「子ども化」している。例えば、

・食べ物の好き嫌いが激しくなり、気に入らないものは食べない

・どんどんわがままになって、自分のことをしようとしない

・急に機嫌が悪くなって怒り出す

・嫌味を言う時「・・・していますー」と変に丁寧語になる

といったところだ。

で、この言動は、まもなく幼稚園に入ろうする孫に酷似している。まさしく父と孫は、精神年齢的はほぼ同等にある。二人は「対照」ならぬ「対称」の状態だ。

孫は、パパやママから厳しく叱られることがあるが、父には「今更かわいそうだから」ということで誰も、もう何も言わない。まさしく坂を登っていく孫と急降下する父。精神年齢が逆転するのも間近だろう。

という自分も還暦を過ぎ、既に「子ども化」が始まっているかも。日常の言動に注意して、進行を抑えるようにしなければ。いつまでも大人の姿を見せ続け、孫とは「対照的」な状態をキープしないと・・・・。

いずれにせよ、父母には、いい老後を過ごし続けてもらいたい。

ジョッギング時の走行は左側・右側?

私は、1回/週程度のジョッギングを習慣としている。昨年もこの時期、このブログにジョッギングについて投稿したが、決して早くもないしそんなに熱心でもない。まあ楽しみながら、また体調維持の意味もあって、止めるのも怖いから走ってるレベルだ。

ただ、最近走っていてちょくちょく感じるのは、右側・左側どちらを走ったらいいのかということ。東京での10年超の単身赴任時代は、多摩川沿いを走っていたが、歩行者を含め皆さん左側だったと思う。だからどっちを走るかなんて考えず、無意識に左側を走っていた。そのせいか、左側走行が自分のクセになっている。

ところが、奈良に戻って近くの川沿いを走ると、これは人によりバラバラ。まして、多摩川のように行き交う人もまばらで、未知も狭い。向こうから走ってくる(歩いてくる)人をみて、ぶつからないように、サイドを変えている。逆に向こう側が、私を避けてサイドを変えてくれるケースもある。どうやら我が故郷では、統一したマナーはなさそうだ。

でも、こんなことでも気になってしまうと、ストレスになってしまう。自分は、左側が正しいと思うのだが、ネットで見ても、どうもはっきりしない。私の感覚では、すれ違う人の約7割は右側走行(通行)で、「被害者意識」が強くなっている。

こんなこと他人に話したら「つべこべ言わずに、その都度対応したらいいだけ」とバカにされるだけだろうなあ。そもそも、こんなことで「被害者意識」を持つこと自体が、歳をとり、柔軟性がなくなって来たせいかも。(反省)

ということで、次回の走行時は、以下の2点を心掛けて、ストレス解消としよう。

①すれ違った人の左側走行(通行)と右側走行(通行)の割合を数え気を紛らわす           ②こちらがサイド譲った場合は、相手の役に立った(社会貢献した)と喜ぶ

こんなことを考える自体、心の若さを保つのも大変な年齢になったんだなあ と感じる今日この頃です。

 

 

 

新たな気づきと笑いが詰まった重松清の「カモナマイハウス」

作家の重松清の「カモナマイハウス」を読んだ。

重松さんは、私とほぼ同世代。今迄も新作を読むたびに、その時々の自分の心情と重なる点があった。今回も今まで通り、主人公は同世代で、感情移入できた。また、この人の本は、完全ハッピーではなく、どことなく詫びさ・切なさがあるので、現実感が漂う点も好きだ。

              

さて、ストーリーは別にして、今回私の心をうったフレーズが2点あった。一つは、「温故知新」。といっても「故き温ねて 新しきを知る」ではなく、「故き温ねて 新しきを知る」というもの。

「故きを」とすると、何かしんみりとした、厳かなイメージを連想するが、「故きが」となると、自分事と感じ、当事者意識が高まる。しかも温ねる先は、故きである必要はなく、新しきものを知ることができるのなら、どこでも構わない。なんか、好奇心が湧き出て、積極的に行動しようとする気になる。

二つ目は、「夫婦っていうのは、愛情に始まって、友情になって、人情になって・・・で、最後に行き着くところが・・・・根性!」というもの。

これには思わず声を上げて笑ってしまった。絶妙な表現。どうしたら、我々のような還暦世代の気持ちを代弁できるのだろう。そうだ、これからは、根性を持って一緒に暮らせばいいんだ。またエネルギーが湧いてきた。

さて、「故き」である私は、どこに行ったらいいか。もしいいところがあれば、どなたか教えて頂けませんか。「根性」は十分あるはずなので、どこでも大丈夫です!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生の楽しみが広がる「再会」

 昨年、高校の還暦同窓会があり、当時の同級生と何十年ぶりかの再会を果たした。永年会ってなく、直近の共通の話題がなくても、そこはかつての同級生。昔に戻って、気兼ねなく話が進み、あっという間に時間が過ぎた。

 また、還暦を迎えたということもあり、”これからのキャリアアップにつなげる人脈形成”というガツガツした人間おらず、いたって自然体。その証拠に、殆ど名刺交換している姿はなかった。

 ところで、先日、ひょんなことから数十年ぶりの再会を果たすことになった。といっても、人ではなく、LPレコード。なんとキャンディーズの2枚組のベストアルバム。このアルバムは、中学生時代に購入した記憶があり、実家の私の部屋にあるものと思っていた。

             

 ところが、会社の独身寮時代の先輩から、「実家に帰ったら、昔借りたLPがあった。ごめんなさない」ということで、返送されてきた。こちらとしては、その先輩に貸した記憶はないし、何より実家から当時の会社の独身寮に持って行った記憶すらない。

 確かに送られてきたのは私が購入したLP。何はともあれ、魔訶不識な再会となった。でも、我が家にはレコードプレーヤーはもはやないのが残念。アマゾンで調べると「在庫なし」との表示。これは希少価値があり、高く買い取ってもらえるかも・・・。

いやいや、それは止めとこう。送ってくれた先輩にも申し訳ないし、何らかの縁があったのだから「再会」できたと思うようにしよう。「再会」は必然なんだと考えよう。

次はどんな人・物と「再会」できるか。残りの人生、また楽しみが増えた。